Courio-City代表 柳川氏
03.Courio-City
有限会社クリオシティ
http://www.courio-city.com/

Interview by messengerbag.jp
Photo by Jun from messengerbag.jp
取材日:2008年3月19日
横浜を拠点とする「クリオシティ」。
代表の柳川氏は、海外生活を経て、生まれ育った街にメッセンジャー会社を立ち上げた。
我々の質問にひとつひとつ丁寧に答えてくれた彼の言葉からは、自転車と、それを取り巻く環境への熱く、静かな想いが伝わってくる。
― メッセンジャーになるまでの、自転車との関わりについて教えて下さい
 高校まではサッカーとラグビーに明け暮れて、大学でトライアスロンを始め、そこでロードレーサーに出会いました。19の頃です。筋肉ばかりのラガーマン体型だったので、平地は早かったですが、上りになると誰よりも失速していました。箱根を含む200キロ走りこみとか、ヤビツ峠5往復とか、ひたすら追い込んだトレーニングをしていました。家のローラー台では(アイアンマン)ハワイやツール(ドフランス)のビデオを見ながらインターバル。今思えばかなりストイックによくやっていました。その頃は、まだアームストロングがロミンゲルやインデュラインに個人TTで抜かされている、そんな時代でした。

ハタチの時、同じ大学の先輩にTサーブの人がいて、人が足りないから手伝ってもらえないかと、手作りっぽいA4サイズの求人広告を見せられ、走れて稼げるなんてサイコーじゃん!って思って履歴書を送ったんです。そんな仕事が存在するんだって初めて知りました。けど、働ける曜日が少ないのと自転車の持ち込みができなくて、落ちちゃったんですよね。「誰よりも走り回れるのに!」って悔しい思いをしたのを覚えています(笑)。

卒業後にニュージーランドに渡り、あっちでは英語の勉強とガーデナーをやりながら、トライアスリートから借りた自転車に乗っていました。 帰国後は旅系のテレビ番組制作の仕事に就き、この間は全くのノー自転車。体を壊して退職し、健康志向が強くなりました。 その後、家の近所でメッセンジャー募集の張り紙を見つけて即応募し採用されたんですが、少ししてそこは解散してしまい、縁あって以前在籍していたメッセンジャー会社に入ったのですが、7名ほどいた先輩スタッフがあっという間に全員辞めてしまって、社長と二人だけで一から再スタートすることになりました。今思えば波乱ずくめのメッセンジャーライフの幕開けだったように思います。

― なぜクリオシティを立ち上げたんでしょうか。立ち上げまでの経緯を聞かせてください
 
 メッセンジャーを始めた時は、この仕事を一生の職にしようなんて思っていませんでした。若いうちの一つの経験という程度で。でも実際に始めてみると、想像以上に楽しくこれが天職だと思えたんですよね。
それに、いつも僕は逞しくありたいと思っています。自分が逞しくいられるから、この仕事が好きなのかもしれません。逞しいっていうのは、フィジカルな面ではなく、生き様です。ある日突然、言葉も通じない国で生きていくことになっても、無人島でいきていくことになっても、どんな環境でも逞しく生きていけるように。だから生きている実感が得られるこの仕事が好きなのかも知れません。そんな考えが根底にはあります。
自分の力で何とかする。自分の責任で、等身大で、納得がいくように。 職業や生き方なんて星の数ほどある。そんな中で、あえてメッセンジャーをやるっていう意味を突き詰めて考えたとき、僕の場合は、自分で選んだ生き方なんだから、会社を当てにしてぶら下がってちゃだめだと、自分で人生をコントロールしなきゃと思って、そのためにはそれなりに腹くくってリスクと責任も背負わなきゃいけないな、と。それで独立する決心を固めました。

開業する前に武者修行のため、東京のサイクレックスに移籍しました。海外のメッセンジャー文化に触れたときのように、自分にとってはちょっとしたことが新鮮で楽しかったですね。自分にとって当たり前のことが、当たり前でなく、意外なことがまかり通っていたりして。当時の仲間は、他社を経験後に移籍してきた者ばかりでしたから、みんな個が確立されていて、面白かったです。 春夏を東京で走って感じたのは、やっぱり自分は横浜の街が好きだっていうことでした。商売として横浜の方がより難しそうなのも、逆に奮起材料になりました。いっちょう横浜を盛り上げるか!っていう感じで2003年の10月に開業しました。

― なぜ横浜という地を選んだのでしょうか?
 生まれ育った街だからです。横浜でなければ、東京もNYもロンドンもどこでも同じ。学生時分までは海外で働いていくつもりでした。でもNZ、オーストラリア、フィジー、韓国など旅をしながら、いろんな経験をして、日本という国や生まれ育った街に対する価値観が変わり、郷土愛が出てきたと言えます。恩返しや使命感みたいなものです。

― 創業当時の苦労話などあれば教えてください
 とにかく仕事が少なくて、収入が全くない期間が長かったことですね。大人4人がかりで一日の売上が630円なんていう日もありました。最初は勢いがあるから、何でも耐えられましたが、数ヶ月してくると段々精神的疲労が見え始め、先の見えない消耗戦に挫折しそうにもなりました。1年数ヶ月間、損益は潜る一方で、個人の貯金も数千円まで減りました。スタッフには心配かけられないし、解決策は見えないし、累積の損益は悪化していくしで、考えているとすぐ朝になってしまい、眠れない日が続いたので、家にあったラムをストレートで飲んで、無理やり酔って眠る時期がありました。10円ハゲもできましたね。
 

日中、飲み物を買う余裕もなく、給水機や水道の水ばかり飲んでいたので、街のどのビルのどこに給水機があるか、かなり詳しくなりましたよ(笑)。 半年間はひたすら朝から晩まで飛び込み営業をしてました。もはや格好はメッセンジャーだけど、やってることはバリバリの営業マンですよ。運ぶ荷物がないんですから。行ってないビルはないくらいやって、反応が良さそうなところは何回も行って。9回目でようやく仕事にありつけた会社もありました。「世の中でいま一番仕事を欲っしているのは自分です!」とか言って。もう情けで与えてくれたのかも。

NZで昔、仕事を探して一軒一軒ノックして「何か自分ができそうな仕事はないか?」と尋ね歩いたことがあり、ようやく一週間後に庭師の仕事にありつけた経験があったから、そのうちどうにかなるかなとは思ってましたけどね。でも実際その期間は、自分たちのサービスについて揉みに揉み返して、磨きをかけていく時期でもありました。

あと大変だったと言えば、開業当初の2年間、トータルで休みが6日だけだったこと。12/31~1/2。あとは毎日仕事でした。開業したら3年間は休みナシ!と覚悟していたので耐えられましたが。むしろ誰よりもメッセンジャーやってるなーって充実感を覚えながら走ってました。「このオーダーはあいつに払う分、で、こっちの1本は俺の分、、、」みたいなこと考えていつも走ってました。ごはんを食べる時も、さっきのデリバリーで稼いだ額を超えないように、こっちを食べようとか。世の中もっと苦労している人もいますし、自分の場合は選んで好きなことをしているわけですから「苦労」とは呼べないかもしれませんね。苦労話しではなく、工夫話しかな。

― 会社としてのこだわり、理念、譲れない点、他社との最大の違いは何でしょうか?
 こだわりは、オーダー1本1本に感謝すること。それからスタッフ全員がお互いをリスペクトし合えること。一人一人が一流のメッセンジャーとして働いてこそ、自由なり権利があること。他社との違いは、会社が横浜にあることでしょうか。
それと伝票がない事。なので、ウチの生え抜きは伝票の書き方を知りません(笑)。ウチは全員、プロ意識が強いっていうのはありますね。スタッフはみんな頼もしい。だから、これだけしっかりしたメッセンジャーたちに支えられている横浜の街も、ラッキーだと思っていますね。
― 柳川さんは海外で自転車文化に触れた経験が豊かだと思います。影響を受けたところや、日本との違いを教えてください
 なぜ自転車に乗るのか。この理由は様々ですが、大半は海外も日本も同じです。「好きだから」「早いから」「健康に良いから」「経済的だから」「競技としてやってるから」「車がないから」などなど。 しかし、海外には日本ではあまり聞くことがない理由で自転車に乗る人もいます。それは、自動車を中心とした社会構造、原油が支配している経済の構図に異を唱えるために自転車に乗るということ。日本ではあまりそんなことを意識して自転車に乗る人はいないと思いますが、海外には政治的思想から自転車をチョイスしている人が意外といます。日本でそういうこと声を大にして言うと、煙たがられますけどね。電気にもガソリンにも依存せず、自分自身で解決できる移動手段の自転車。依存度が低く、人力でクリーンなところがいいですよね。

あとは自転車の扱い方。自分はそれまでデリケートな乗り物だと思っていたんですが、海外に行ってから、もっと単純で頑丈な乗り物なんだということが分かり、存在がぐっと近づいた気がしました。もっと肩の力を抜いて付き合っていいんだ、と。 メッセンジャーの世界戦で、あるとき何かのメカトラブルで納得の走りができなかった人が、自分の自転車をコース外へ放り投げていました。仕事の道具として、認めなかったんだと思います。日本的な見方によっては、モノをぞんざいに扱う不届き者に映るでしょうが、僕はプロの威厳を感じました。

 

 以前、グリーンランドの世界最北の村に1ヶ月間滞在してたことがあるんですが、イヌイットの猟師は皆さん移動用に13頭立てほどの犬ぞりを持っていて、僕が乗っていた犬ぞりの中に、綱を全然引っ張らずに、周りの犬にちょっかいを出してばかりの犬がいました。ムチで何度叩いても、サボるんです。「あいつは少し前からこうなんだ」ともの凄く怒っていて、村に帰ってしばらくすると、その犬を首ひもで吊るして殺してしまいました。仕事をしない犬は無駄にエサを食べるばかりか、周りにも悪影響を与えるから、早いうちに殺して見せしめにするとのこと。犬が大好きな自分には受け入れ難い現実でしたが、良く見ると村のあちこちに犬が吊るされて凍っていて、イヌイットの村ではそれが当たり前のことだったんです。
日本や多くの国にとって、犬は家族のようなペットですが、極地で生きるイヌイットたちにとって、犬は生き抜くための大事なパートナーであり、道具でした。ものすごく犬を可愛がっているのも確かなんですが、リアルな現実がある。自転車を投げていたメッセンジャーを見たときに、犬を絞めたイヌイットが重なりました。

あとは、日本はとにかく何でも密集していますから、距離感覚が大きく違いますね。海外で自転車を選ぶということは、日本と比べて遥かに長い距離を走ることを意味するわけで、その感覚で日本を走れば、どこまででも行けてしまうと思います。逆に、日本で長く走ったと思っていても、向こうにとっては大した距離ではなかったり。オーストラリアを自転車で1周したメッセンジャーの仲間が以前、成田空港から横浜まで普通に自転車で帰ってきましたからね。「こんなの長距離には入らねー!」と言っていました。それはちょっと極端かもしれませんが。つまり日本はどこ行くにも近いんだから、もっと自転車に乗りましょうと言いたいですね。けど不思議なもので、狭いなーと思っていた日本も、しばらくすると慣れてしまい、段々と広く思えてきてしまうんですよね。慣れって怖いですね。

― *1)BFF Tokyoの開催や*2)MSGR-Holicの制作・販売など、日本でのメッセンジャーカルチャーの底上げに貢献していますが、海外での経験もその原動力となっているのでしょうか?
 ん~、どうでしょうか。この2つに関して言えば、海外の経験は関係ないかもしれません。誰かやる人が既にいるなら自分はやらないタイプですし、たまたまやる人がいなかったので、BFFにしろHolicにしろ動いた感じです。実際、映像のもつ説得力が今のメッセンジャー業界には必要だなと思っていたのは確かです。

旅の経験が、外人さんと対等に話しをする感覚を身に付けさせてくれた、という点では生きていると思いますが、上の2つに関する原動力は、自転車とメッセンジャーへの愛情です。

*1)Bicycle Film Festivalの略。毎年行われているNY生まれの自転車映画祭。
*2)2004年に京都で開催されたメッセンジャーイベントを綴った日本初のメッセンジャードキュメンタリービデオ。

― 柳川さんにとっての、メッセンジャーの魅力を聞かせてください
 
 まずは、生きている街や多くの人と仕事を通して繋がっているのが楽しい。それと、体を動かすので健康を維持でき、何事にもポジティブになれるってこともあります。

メッセンジャーは世界中どこに行っても、言葉も国籍の壁もなく、その地のメッセンジャーに家族のように受け入れてもらえます。それは、“生身の身体で自動車がひしめく交通の中に身を投じ、荷物のために走り抜く”日々を味わっている、まさに戦友であるから。路上で何かあったら、助けてくれるのは同じ路上を走るメッセンジャーだし、逆に路上で困っているメッセンジャーがいたら助けたいと思います。

 

― 日本のメッセンジャー(自転車)カルチャーがより魅力的になるために「こうなって欲しい」というイメージはありますか?
 自転車と言っても色々なタイプの自転車がありますよね。別ジャンルの自転車乗りでも、もっとお互いに気軽に繋がれると良いと思います。やっぱり挨拶からですよね。ウチのメッセンジャー達にも言ってますが、「街の交差点などで自転車乗りに会ったら、まずはメッセンジャーから挨拶しよう」と。「こんにちは」って。そこから心地良い関係が生まれるわけですから。気軽にコミュニケーションできる環境があると、自然と面白いことが生まれてきたりしますよね。「あ、それいいねー!」みたいに。シャイな国民性もあるかもしれませんが、二言目がなくても、一言目はちゃんと挨拶する。会釈でもいい。挨拶してるのに「はぁ?」みたいにシカトされると虚しくなりますよ。 僕は声掛けられると嬉しいタイプですけどね。
― カルチャーを象徴するアイテムの1つにメッセンジャーバッグがあります。メッセンジャーにとってはどういう存在なのでしょうか?
 「メッセンジャーとメッセンジャーバッグ」を別で例えると、「サラリーマンのネクタイ」とか、「コックのエプロン」とか、「ラーメン食べる前に長い髪を後ろで結ぶ女の人にとってのヒモ」などと言えるでしょうか。「さぁ、やるぞ!」って、締めると気合いが入るんです。 バッグがどういう存在かというと、ある意味自転車を超える仕事道具と言えますよね。自転車と体は離れることがありますが、メッセンジャーバッグと体は離れることがありませんから。自分の個性を出す一つのアイテムとも言えますし、預かった荷物を入れておくわけですから、信用ならないものは使いたいくないとメッセンジャーなら誰もが思うはず。そういう「パートナー」です。
 

自分のことを言えば、やはりメッセンジャーを経験している人が作るメッセンジャーバッグが良いですね。さらにその人を知っているのがベスト。どんな荷物が出現するのか、どういった荷物の時はどういう入れ方と背負い方をすればいいとか、雨と言ってもどれだけすごい雨の中を走る仕事なのかとか、何度も何度も緩めては締めて、開けては閉じてを繰り返すと、どこがどうヘタれてくるかとか、汗をかく仕事ですから、汗臭くなったらどうすれば解決できるかとか…経験者なら少なくとも問題解決したものをリリースすると思います。その点、どこの誰が作ったものか分からないバッグは、気持ちの問題ですが、タダでもらっても仕事では使いません。自分の責任感を表す道具とも言えるので、機能が最重要、デザインは二の次です。仕事ですから。

― 最後に、クリオシティの今後の目標、柳川さんの目指すところを教えてください
 クリオシティは仕事の都合で、オートバイも一部導入しています。最初は自分も自転車最右翼に位置していたので、導入自体に抵抗がありましたが、仕事は仕事。自転車も万能ではないので、お互いを補い合うかたちで存在しています。メインは自転車なんですが、トップとして自転車右翼は卒業し、すっかりマイルドなリベラル派に変わりました。
相手を否定ばかりしていると、キリストとイスラムの中東戦争のように、一向に溝が埋まらない。信仰は大事なことでも、他を否定してはいけませんよね?自転車とオートバイもそう。お互いに良いところは認めあうのが二輪和平の始まりですよ。だからクリオは、自転車VSオートバイという構図はもう捨てて、共生の道を進んでいます。自転車便をお客さんに選んでもらうのではなく、サービスレベルの高いクリオシティを選んでもらって、そのクリオシティが自転車便を選んでいる、という図を新たに描き始めました。ある意味強引な手法だけど、フタを開ければとってもクリーンな会社だから、どこよりも最速で届けていれば結果オーライということで。
そういうスタイルで、横浜の中心部をこれからも盛り上げて行かれればと思っています。

メッセンジャーの仕事って、とても地に足のついた仕事だと思います。割りのいい仕事なんて挙げればいっぱいありますが、何だかんだ言っても世の中は人間社会ですから。人のために、人と人をつなぐ、喜怒哀楽のある、大切なインフラだと思っています。お金は汗して稼がないと。自分は、この大切な仕事をまっとうしたいと思います。それには何も考えずにただ走り続ければ良いわけではないので、社名にもなっている「好奇心」を持って色んなことに挑戦し、スキルや知識、経験を増やしてこの仕事の可能性を広げていきたい。

19才の時に初めて出会ったロードレーサー「カメレオン号」と。
4年前に塗装し直し「Courio-City号」に生まれ変わった愛車との付き合いは15年にもなる。本人曰く「体の一部みたいなもの」

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― メッセンジャーになるまでの、自転車との関わりについて教えて下さい
 高校まではサッカーとラグビーに明け暮れて、大学でトライアスロンを始め、そこでロードレーサーに出会いました。19の頃です。筋肉ばかりのラガーマン体型だったので、平地は早かったですが、上りになると誰よりも失速していました。箱根を含む200キロ走りこみとか、ヤビツ峠5往復とか、ひたすら追い込んだトレーニングをしていました。家のローラー台では(アイアンマン)ハワイやツール(ドフランス)のビデオを見ながらインターバル。今思えばかなりストイックによくやっていました。その頃は、まだアームストロングがロミンゲルやインデュラインに個人TTで抜かされている、そんな時代でした。

ハタチの時、同じ大学の先輩にTサーブの人がいて、人が足りないから手伝ってもらえないかと、手作りっぽいA4サイズの求人広告を見せられ、走れて稼げるなんてサイコーじゃん!って思って履歴書を送ったんです。そんな仕事が存在するんだって初めて知りました。けど、働ける曜日が少ないのと自転車の持ち込みができなくて、落ちちゃったんですよね。「誰よりも走り回れるのに!」って悔しい思いをしたのを覚えています(笑)。

卒業後にニュージーランドに渡り、あっちでは英語の勉強とガーデナーをやりながら、トライアスリートから借りた自転車に乗っていました。 帰国後は旅系のテレビ番組制作の仕事に就き、この間は全くのノー自転車。体を壊して退職し、健康志向が強くなりました。 その後、家の近所でメッセンジャー募集の張り紙を見つけて即応募し採用されたんですが、少ししてそこは解散してしまい、縁あって以前在籍していたメッセンジャー会社に入ったのですが、7名ほどいた先輩スタッフがあっという間に全員辞めてしまって、社長と二人だけで一から再スタートすることになりました。今思えば波乱ずくめのメッセンジャーライフの幕開けだったように思います。

― なぜクリオシティを立ち上げたんでしょうか。立ち上げまでの経緯を聞かせてください
 
 メッセンジャーを始めた時は、この仕事を一生の職にしようなんて思っていませんでした。若いうちの一つの経験という程度で。でも実際に始めてみると、想像以上に楽しくこれが天職だと思えたんですよね。
それに、いつも僕は逞しくありたいと思っています。自分が逞しくいられるから、この仕事が好きなのかもしれません。逞しいっていうのは、フィジカルな面ではなく、生き様です。ある日突然、言葉も通じない国で生きていくことになっても、無人島でいきていくことになっても、どんな環境でも逞しく生きていけるように。だから生きている実感が得られるこの仕事が好きなのかも知れません。そんな考えが根底にはあります。
自分の力で何とかする。自分の責任で、等身大で、納得がいくように。 職業や生き方なんて星の数ほどある。そんな中で、あえてメッセンジャーをやるっていう意味を突き詰めて考えたとき、僕の場合は、自分で選んだ生き方なんだから、会社を当てにしてぶら下がってちゃだめだと、自分で人生をコントロールしなきゃと思って、そのためにはそれなりに腹くくってリスクと責任も背負わなきゃいけないな、と。それで独立する決心を固めました。

開業する前に武者修行のため、東京のサイクレックスに移籍しました。海外のメッセンジャー文化に触れたときのように、自分にとってはちょっとしたことが新鮮で楽しかったですね。自分にとって当たり前のことが、当たり前でなく、意外なことがまかり通っていたりして。当時の仲間は、他社を経験後に移籍してきた者ばかりでしたから、みんな個が確立されていて、面白かったです。 春夏を東京で走って感じたのは、やっぱり自分は横浜の街が好きだっていうことでした。商売として横浜の方がより難しそうなのも、逆に奮起材料になりました。いっちょう横浜を盛り上げるか!っていう感じで2003年の10月に開業しました。

― なぜ横浜という地を選んだのでしょうか?
 生まれ育った街だからです。横浜でなければ、東京もNYもロンドンもどこでも同じ。学生時分までは海外で働いていくつもりでした。でもNZ、オーストラリア、フィジー、韓国など旅をしながら、いろんな経験をして、日本という国や生まれ育った街に対する価値観が変わり、郷土愛が出てきたと言えます。恩返しや使命感みたいなものです。

― 創業当時の苦労話などあれば教えてください
 とにかく仕事が少なくて、収入が全くない期間が長かったことですね。大人4人がかりで一日の売上が630円なんていう日もありました。最初は勢いがあるから、何でも耐えられましたが、数ヶ月してくると段々精神的疲労が見え始め、先の見えない消耗戦に挫折しそうにもなりました。1年数ヶ月間、損益は潜る一方で、個人の貯金も数千円まで減りました。スタッフには心配かけられないし、解決策は見えないし、累積の損益は悪化していくしで、考えているとすぐ朝になってしまい、眠れない日が続いたので、家にあったラムをストレートで飲んで、無理やり酔って眠る時期がありました。10円ハゲもできましたね。
 

日中、飲み物を買う余裕もなく、給水機や水道の水ばかり飲んでいたので、街のどのビルのどこに給水機があるか、かなり詳しくなりましたよ(笑)。 半年間はひたすら朝から晩まで飛び込み営業をしてました。もはや格好はメッセンジャーだけど、やってることはバリバリの営業マンですよ。運ぶ荷物がないんですから。行ってないビルはないくらいやって、反応が良さそうなところは何回も行って。9回目でようやく仕事にありつけた会社もありました。「世の中でいま一番仕事を欲っしているのは自分です!」とか言って。もう情けで与えてくれたのかも。

NZで昔、仕事を探して一軒一軒ノックして「何か自分ができそうな仕事はないか?」と尋ね歩いたことがあり、ようやく一週間後に庭師の仕事にありつけた経験があったから、そのうちどうにかなるかなとは思ってましたけどね。でも実際その期間は、自分たちのサービスについて揉みに揉み返して、磨きをかけていく時期でもありました。

あと大変だったと言えば、開業当初の2年間、トータルで休みが6日だけだったこと。12/31~1/2。あとは毎日仕事でした。開業したら3年間は休みナシ!と覚悟していたので耐えられましたが。むしろ誰よりもメッセンジャーやってるなーって充実感を覚えながら走ってました。「このオーダーはあいつに払う分、で、こっちの1本は俺の分、、、」みたいなこと考えていつも走ってました。ごはんを食べる時も、さっきのデリバリーで稼いだ額を超えないように、こっちを食べようとか。世の中もっと苦労している人もいますし、自分の場合は選んで好きなことをしているわけですから「苦労」とは呼べないかもしれませんね。苦労話しではなく、工夫話しかな。

― 会社としてのこだわり、理念、譲れない点、他社との最大の違いは何でしょうか?
 こだわりは、オーダー1本1本に感謝すること。それからスタッフ全員がお互いをリスペクトし合えること。一人一人が一流のメッセンジャーとして働いてこそ、自由なり権利があること。他社との違いは、会社が横浜にあることでしょうか。
それと伝票がない事。なので、ウチの生え抜きは伝票の書き方を知りません(笑)。ウチは全員、プロ意識が強いっていうのはありますね。スタッフはみんな頼もしい。だから、これだけしっかりしたメッセンジャーたちに支えられている横浜の街も、ラッキーだと思っていますね。
― 柳川さんは海外で自転車文化に触れた経験が豊かだと思います。影響を受けたところや、日本との違いを教えてください
 なぜ自転車に乗るのか。この理由は様々ですが、大半は海外も日本も同じです。「好きだから」「早いから」「健康に良いから」「経済的だから」「競技としてやってるから」「車がないから」などなど。 しかし、海外には日本ではあまり聞くことがない理由で自転車に乗る人もいます。それは、自動車を中心とした社会構造、原油が支配している経済の構図に異を唱えるために自転車に乗るということ。日本ではあまりそんなことを意識して自転車に乗る人はいないと思いますが、海外には政治的思想から自転車をチョイスしている人が意外といます。日本でそういうこと声を大にして言うと、煙たがられますけどね。電気にもガソリンにも依存せず、自分自身で解決できる移動手段の自転車。依存度が低く、人力でクリーンなところがいいですよね。

あとは自転車の扱い方。自分はそれまでデリケートな乗り物だと思っていたんですが、海外に行ってから、もっと単純で頑丈な乗り物なんだということが分かり、存在がぐっと近づいた気がしました。もっと肩の力を抜いて付き合っていいんだ、と。 メッセンジャーの世界戦で、あるとき何かのメカトラブルで納得の走りができなかった人が、自分の自転車をコース外へ放り投げていました。仕事の道具として、認めなかったんだと思います。日本的な見方によっては、モノをぞんざいに扱う不届き者に映るでしょうが、僕はプロの威厳を感じました。

 

 以前、グリーンランドの世界最北の村に1ヶ月間滞在してたことがあるんですが、イヌイットの猟師は皆さん移動用に13頭立てほどの犬ぞりを持っていて、僕が乗っていた犬ぞりの中に、綱を全然引っ張らずに、周りの犬にちょっかいを出してばかりの犬がいました。ムチで何度叩いても、サボるんです。「あいつは少し前からこうなんだ」ともの凄く怒っていて、村に帰ってしばらくすると、その犬を首ひもで吊るして殺してしまいました。仕事をしない犬は無駄にエサを食べるばかりか、周りにも悪影響を与えるから、早いうちに殺して見せしめにするとのこと。犬が大好きな自分には受け入れ難い現実でしたが、良く見ると村のあちこちに犬が吊るされて凍っていて、イヌイットの村ではそれが当たり前のことだったんです。
日本や多くの国にとって、犬は家族のようなペットですが、極地で生きるイヌイットたちにとって、犬は生き抜くための大事なパートナーであり、道具でした。ものすごく犬を可愛がっているのも確かなんですが、リアルな現実がある。自転車を投げていたメッセンジャーを見たときに、犬を絞めたイヌイットが重なりました。

あとは、日本はとにかく何でも密集していますから、距離感覚が大きく違いますね。海外で自転車を選ぶということは、日本と比べて遥かに長い距離を走ることを意味するわけで、その感覚で日本を走れば、どこまででも行けてしまうと思います。逆に、日本で長く走ったと思っていても、向こうにとっては大した距離ではなかったり。オーストラリアを自転車で1周したメッセンジャーの仲間が以前、成田空港から横浜まで普通に自転車で帰ってきましたからね。「こんなの長距離には入らねー!」と言っていました。それはちょっと極端かもしれませんが。つまり日本はどこ行くにも近いんだから、もっと自転車に乗りましょうと言いたいですね。けど不思議なもので、狭いなーと思っていた日本も、しばらくすると慣れてしまい、段々と広く思えてきてしまうんですよね。慣れって怖いですね。

― *1)BFF Tokyoの開催や*2)MSGR-Holicの制作・販売など、日本でのメッセンジャーカルチャーの底上げに貢献していますが、海外での経験もその原動力となっているのでしょうか?
 ん~、どうでしょうか。この2つに関して言えば、海外の経験は関係ないかもしれません。誰かやる人が既にいるなら自分はやらないタイプですし、たまたまやる人がいなかったので、BFFにしろHolicにしろ動いた感じです。実際、映像のもつ説得力が今のメッセンジャー業界には必要だなと思っていたのは確かです。

旅の経験が、外人さんと対等に話しをする感覚を身に付けさせてくれた、という点では生きていると思いますが、上の2つに関する原動力は、自転車とメッセンジャーへの愛情です。

*1)Bicycle Film Festivalの略。毎年行われているNY生まれの自転車映画祭。
*2)2004年に京都で開催されたメッセンジャーイベントを綴った日本初のメッセンジャードキュメンタリービデオ。

― 柳川さんにとっての、メッセンジャーの魅力を聞かせてください
 
 まずは、生きている街や多くの人と仕事を通して繋がっているのが楽しい。それと、体を動かすので健康を維持でき、何事にもポジティブになれるってこともあります。

メッセンジャーは世界中どこに行っても、言葉も国籍の壁もなく、その地のメッセンジャーに家族のように受け入れてもらえます。それは、“生身の身体で自動車がひしめく交通の中に身を投じ、荷物のために走り抜く”日々を味わっている、まさに戦友であるから。路上で何かあったら、助けてくれるのは同じ路上を走るメッセンジャーだし、逆に路上で困っているメッセンジャーがいたら助けたいと思います。

 

― 日本のメッセンジャー(自転車)カルチャーがより魅力的になるために「こうなって欲しい」というイメージはありますか?
 自転車と言っても色々なタイプの自転車がありますよね。別ジャンルの自転車乗りでも、もっとお互いに気軽に繋がれると良いと思います。やっぱり挨拶からですよね。ウチのメッセンジャー達にも言ってますが、「街の交差点などで自転車乗りに会ったら、まずはメッセンジャーから挨拶しよう」と。「こんにちは」って。そこから心地良い関係が生まれるわけですから。気軽にコミュニケーションできる環境があると、自然と面白いことが生まれてきたりしますよね。「あ、それいいねー!」みたいに。シャイな国民性もあるかもしれませんが、二言目がなくても、一言目はちゃんと挨拶する。会釈でもいい。挨拶してるのに「はぁ?」みたいにシカトされると虚しくなりますよ。 僕は声掛けられると嬉しいタイプですけどね。
― カルチャーを象徴するアイテムの1つにメッセンジャーバッグがあります。メッセンジャーにとってはどういう存在なのでしょうか?
 「メッセンジャーとメッセンジャーバッグ」を別で例えると、「サラリーマンのネクタイ」とか、「コックのエプロン」とか、「ラーメン食べる前に長い髪を後ろで結ぶ女の人にとってのヒモ」などと言えるでしょうか。「さぁ、やるぞ!」って、締めると気合いが入るんです。 バッグがどういう存在かというと、ある意味自転車を超える仕事道具と言えますよね。自転車と体は離れることがありますが、メッセンジャーバッグと体は離れることがありませんから。自分の個性を出す一つのアイテムとも言えますし、預かった荷物を入れておくわけですから、信用ならないものは使いたいくないとメッセンジャーなら誰もが思うはず。そういう「パートナー」です。
 

自分のことを言えば、やはりメッセンジャーを経験している人が作るメッセンジャーバッグが良いですね。さらにその人を知っているのがベスト。どんな荷物が出現するのか、どういった荷物の時はどういう入れ方と背負い方をすればいいとか、雨と言ってもどれだけすごい雨の中を走る仕事なのかとか、何度も何度も緩めては締めて、開けては閉じてを繰り返すと、どこがどうヘタれてくるかとか、汗をかく仕事ですから、汗臭くなったらどうすれば解決できるかとか…経験者なら少なくとも問題解決したものをリリースすると思います。その点、どこの誰が作ったものか分からないバッグは、気持ちの問題ですが、タダでもらっても仕事では使いません。自分の責任感を表す道具とも言えるので、機能が最重要、デザインは二の次です。仕事ですから。

― 最後に、クリオシティの今後の目標、柳川さんの目指すところを教えてください
 クリオシティは仕事の都合で、オートバイも一部導入しています。最初は自分も自転車最右翼に位置していたので、導入自体に抵抗がありましたが、仕事は仕事。自転車も万能ではないので、お互いを補い合うかたちで存在しています。メインは自転車なんですが、トップとして自転車右翼は卒業し、すっかりマイルドなリベラル派に変わりました。
相手を否定ばかりしていると、キリストとイスラムの中東戦争のように、一向に溝が埋まらない。信仰は大事なことでも、他を否定してはいけませんよね?自転車とオートバイもそう。お互いに良いところは認めあうのが二輪和平の始まりですよ。だからクリオは、自転車VSオートバイという構図はもう捨てて、共生の道を進んでいます。自転車便をお客さんに選んでもらうのではなく、サービスレベルの高いクリオシティを選んでもらって、そのクリオシティが自転車便を選んでいる、という図を新たに描き始めました。ある意味強引な手法だけど、フタを開ければとってもクリーンな会社だから、どこよりも最速で届けていれば結果オーライということで。
そういうスタイルで、横浜の中心部をこれからも盛り上げて行かれればと思っています。

メッセンジャーの仕事って、とても地に足のついた仕事だと思います。割りのいい仕事なんて挙げればいっぱいありますが、何だかんだ言っても世の中は人間社会ですから。人のために、人と人をつなぐ、喜怒哀楽のある、大切なインフラだと思っています。お金は汗して稼がないと。自分は、この大切な仕事をまっとうしたいと思います。それには何も考えずにただ走り続ければ良いわけではないので、社名にもなっている「好奇心」を持って色んなことに挑戦し、スキルや知識、経験を増やしてこの仕事の可能性を広げていきたい。

19才の時に初めて出会ったロードレーサー「カメレオン号」と。
4年前に塗装し直し「Courio-City号」に生まれ変わった愛車との付き合いは15年にもなる。本人曰く「体の一部みたいなもの」

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